「枯れた骨の復活」〜ペンテコステによせて〜(学校だより「銀杏」第73号より)

 主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。 主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。 そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」
そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。  
(エゼキエル書37章 1節−5節)

 5月15日の日曜日には、それぞれの教会でペンテコステ礼拝(聖霊降臨日礼拝)が捧げられました。ペンテコステはキリスト教の3大祝聖日(イースター・ペンテコステ・クリスマス)のひとつに数えられます。今朝の礼拝もそれに因んだ聖句が与えられました。「枯れた骨」の話です。普通には考えられない怪しげな話に思うかもしれません。しかし、人は時として枯れた骨のような生活に陥ることがあります。試験に失敗した時や人間関係が上手くいかない、あるいは家族の問題で悩むこともあるかもしれません。そのような時に干からびた骨のような気持ちになるのも事実です。
 そんな時にどうしたらよいのでしょうか。友人や先生に相談することもあるでしょう。しかし、人間の力には限りがあります。聖書はエゼキエル書37章5節で「主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」と書かれています。人間の外側から聖霊が与えられるのです。聖霊と聞くと魔力的な力を思い浮かべる人もいるかもしれません。しかし、聖書はそのようには言いません。なるほど主イエスの弟子達は十字架の出来事によって自分たちの生きる希望も失せてしまったのです。枯れた骨の状態でした。そこに主イエスの復活があり更に50日後に聖霊を与えられることにより、神様の御心と主イエスの十字架の意味がはっきりと分かったのです。そこに教会が生まれました。従ってペンテコステは教会の誕生日ともいわれます。
 弟子達は聖霊を与えられることにより新たな力を得ました。そして新しい生き方が始まったのです。自分のなけなしの力で生きていくのでなく、神様から与えられた霊の賜物を発見し生かしていく生き方です。第一コリント12章4節以下には霊の賜物が書かれています。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
一人一人に"霊"の働きが現れるのは、全体の益となるためです。 ある人には"霊"によって知恵の言葉、ある人には同じ"霊"によって知識の言葉が与えられ、 ある人にはその同じ"霊"によって信仰、ある人にはこの唯一の"霊"によって病気をいやす力、 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。 これらすべてのことは、同じ唯一の"霊"の働きであって、"霊"は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」
 聖霊を与えられることは、自分に魔力を得ることとは違うのです。むしろ逆で他者のために賜物を用いる生き方です。「一人一人に"霊"の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」と書かれている通りです。枯れた骨のような生活から生き返る道はここにあります。それは女子聖学院の建学の精神「神を仰ぎ、人に仕う」にも通じます。
 今日も神様から各自に与えられた霊の賜物を確認し、それを今となりに座っている人のために、クラスメートのために、家族のために、そして、世界の人々のために用いる人になりたいと願うのです。

校長 山口 博

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